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| 今回ご紹介しますのは、都城市立妻ヶ丘中学校の第二回美術部作品展よりの作品です。 ご紹介作品は、一部の生徒さんの作品ですが、他の作品にもユニークなものが多くありました。 なを、作品は、2005年1月8日(土)現在の展示会のものです。 |
陣内 香代さん(二年生)の作品です。 ピカソの作品「夢」の模写からです。 美術部作品展のテーマは模写にありました。 優れた人の作品を、美術本や、商業写真等から模写するのも、絵画を勉強する時にはよくある手段です。とにかく、ひたすら対象を模写することは、現実の風景を描くのと、実質的には変らない作業でしょう。物まねで対象を正確に、或いは、自分で感じた心具合を表現する過程で、創る動機、人の心の葛藤、物のみかたを、少しでも知るきっかけにもなりますので、大事なことであると思います。 初めは、いわゆる抽象的作品でも、よく体験していくと、そこには作品の内側に、しっかりとした物の把握の仕方があると感じたりするようです。 空から始まって、現実の確かさをしり、その奥にまた空をみていく経験を通じて、なぜモノをつくるのか、えがくのか、等が自ずと理解されてきます。そこからが、実は始まりなのだと気づきもします。 この模写作品の原作者のピカソも、その修業時代には、人並みに基礎の基礎である素描に打ち込み、しっかりとした描写力を身につけていったことが、残された作品で知ることができます。大いに物まねして、その一歩をしるようになったら一段と、いま生きていることの意味がすこしはわかることになります。 あじゃぱーは、まだ早いですね。 あじゃぱーは、大いに作りまくった人の言の葉にしかすぎません。その言葉も本当の事は、わからない、とのことのほどの意です。でも、そう捨て台詞を吐いた多くの人々は、営々と続く、人の歴史の時間を肌で感じ、生き抜いた人たちでもありました。 |
北岩 美咲さん(二年生)の作品です。夭折した青木 繁の作品「海の幸」からの模写です。模写対象の作品を、自分の膨らました絵の中に活かす創意が面白いですね。女のひとの悲しげな眼差しと、いつもの漁を終えた人の対照がみごとです。人は生まれて死ぬ。でも、命あるモノはその存在のなかで、昔からそうであったかのごとく、獲物を手にし、明日へ帰ります。どこへ帰るのだろう、なんてことなど知ったこっじゃありません。それが普通であり、また命のかなしさであります。表現は、あれっ・・です。 |
藤田 健さん(二年生)の(モナ リザ四天王)作品です。言わずと知れたレオナルド・ダ・ビンチの作品「モナリザ」からの連想です。わたしの覚える婦人像でしょうか。目のつけ方が面白いですね。才の開陳はそーっと。ごめんなさい。 |
星田 友里佳さん(二年生)の作品です。有名なゲルニカ(ピカソ)の模写です。おなじ人でありながら、どうして他人の血を流すのでしょう。そうした思いの模写です。表現は手段にしか過ぎません。芸術と人が崇めても、生きる日々を破壊する動きの前では、そんなことなど何の意味も持ちえません。いのちあってのもんだね〜の極意です。 |
近藤 佳奈さん(三年生)の作品です。 題材は、能面の「小面」の模写です。 近藤さんの自信があふれているかのようです。 幻想的な面です。数えてみたら二十四面あります。 あなたは、何面・・・ 自国の能面は、たった一つのツラであっても、その中には、無限の空間があります。能舞の所作がわずかな動きにあっても、時間的には相当な経過を見せたり、大きな場所を表現していることと関係があるのでしょう。まして、ツラはその時間と空間を一手に受けるのですから、その作りにも、細やかな感性と熟練の時を要する技です。形式は型(形)どおりにすることではないですね。 その本の基本を覚えて、またその基本に戻る、つまり基本を体得しえてこその形式であるわけです。 こればかりは、本人が覚えなければ、いわゆる形ばかりの習得といったことにもなるわけです。知らないよりは、形をしっていることは善いことに違いはありませんが。 小面に、すこし恐ろしさもおぼえました。いい意味ですよ。 |
中原 義貴さん(二年生)の作品です。 模写は、ピカソの「泣く女」からです。 この作品も、北岩さんの作品と同じように、模写対象の後景に他の情景を用いています。ただ、おなじ模写画の絡みでなく、後景は、安藤広重の江戸図にしてあることにミソがあります。西洋の画家が自国の浮世絵等に関心を持ったり、その対象輪郭の線描にある種の開眼を得たと、いわれています。彼等にとって、自国絵かきのいわば一筆書き的描写にさぞや新鮮な驚きを覚えたことであろう事に、想像力を働かした模写です。ところが、北斎を初め、江戸後期の作画作者等は、逆に西洋画の遠近法に関心をみせていたのですから、時間の捩じれ現象が、面白い悪戯を示した場面の時代にあったと感じます。場所と、時間と、文化が時を違えば、互いに知らぬ文化の対面では、それが一方では時代遅れと思っていても、片方では驚くべきゲイジュツと迎えられる現実をも表現したものになっていました。 広重が思った遠近法と、ピカソのキュビズムの対照が、むしろ奇妙に一致するのは面白いことです。 現実の中に真実はいつもあるとの当たり前の表現でした。また、なんでもやってみることだとの作品でもありました。 |
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